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続・地湧の菩薩たち 連載 第一回

お互いの魂磨きの会社経営をしたい

文−神渡 良平


・七福醸造株式会社 社長
犬塚 敦統(いぬづかあつのり)
昭和16年愛知県生まれ。明治大学商学部卒業。七福醸造(株)、(株)味とこころ代表取締役社長。
61年から一倉定を師とし、心の経営を行う。子どもたちに美しい地球を残すことを一番の役割と感じ、種々の実践を続けている。社員共々、掃除に学ぶ会に参加したり、24時間百キロウォークを主催するなど、社員教育に余念がない。
・作家
神渡 良平(かみわたりりょうへい)
昭和23年鹿児島県生まれ。九州大学医学部中退。38歳のとき、脳梗塞で倒れ右半身不随に陥るが、懸命なリハビリによって社会復帰に漕ぎ着けた。そのときの「人生をとりこぼさないためにはどうしたらいいか」という問題意識が、作家となった現在、重低音のように全作品を流れている。著書に「下坐に生きる」「宇宙の響きー中村天風の世界」「地湧の菩薩たち」(以上小社刊)、「春風を斬る 山岡鉄舟」(PHP研究所)などがある。

─── 白だしでトップシェア ───


 愛知県三河地方に、「嫁さん貰うなら七福さんから貰え」と言われる評判の高い会社がある。安城市に本社がある七福醸造という白醤油のメーカーだ。どの社員にも、気配りのよさ、前向きの姿勢、明るさ、温かさなどが溢れているから、そんな評判をされるようになったのだ。

 地元の人々にそんな評価をしていただけることほど、経営者としてうれしいことはない。社長の大塚敦統さんは短く刈ったごま塩頭を照れくさそうに 撫でながら、「とは言っても、普は生き残ることに必死で、ロではきれいごとを言う、本音は自分さえよければいいと考えていた経営者でした」と話す。「ところが 昭和五十二(一九七七)年、会社が倒産の危機に直面したことから、私の経営の仕方はこれでいいのだろうかと考えるようになりました」。

 そんな折、岐阜県高山市にあるホテルの料理長から、「自醤油にだしを入れて作ってみてくれないか」と頼まれた。七福醸造は研究開発に取り組み、ようやく料理長がOKを出した商品ができ上がった。昭和五十三(一九七八)年、白だし醤油を売り出してみると市場の反応はよく、評判は口コミで広がっていってヒット商品に成長し、会社はようやく虎口を脱したのだ。

 「そんな析の昭和六十一(一九八六)年二月、経営コンサルタントの一倉定(さだむ)先生のセミナーに出ました。一倉先生は『電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな社長の責任だ。社長の正しい姿勢こそ、正しい経営の基礎である。いい会社とか、悪い会社とかはないんだ。あるのはいい社長か悪い社長かだけだ』と強調されました。私は目の玉が飛び出るほどに驚きました。 社長の経営姿勢がどれほど大切か、改めて発見したのです。私が自己研鑽(けんさん)に真剣になったのはそれからでした」

 一倉先生の指導は犬塚社長の姿勢を正した。「お客様の要求を満たすことは、面倒臭く、効率が悪く、経費がかかるということを肝に銘じ、ひたすらサービスすることが全社の務めである。正しいサービスを行うことによって、 適正な報酬もいただける。自分の会社が高収益型事業構造に変わっていくのはそこからだ」とも強調された。考えてみれば、お客様から要望があっても、 そんな面倒臭いことはできないとか、効率が悪くなるとか、経費がかかり過ぎるなどと考え、自社の事情ばかりを優先して、本当の努力はしていなかったのだ。

 経営姿勢が変われば、原材料の選び方も変わってくる。利益を出そうとして原材料の質を低下させるのではなく、原材料の質にこだわることによって、安ければいいというのではなく、体にいいものをと考えるお客様の要望に応える方策を採った。それによって固定ファンが増えていった。

 その後、他社も白だし製造に参入し、七、八十社を数えるようになったが、製品は真似できても、経営姿勢はそうそう真似できない。こうして白だし醤油の市場規模は三十億円規模になったが、依然としてシェアトップは七福醸造が占め、業務用では四十八%、家庭用を含めても三十四.三%を占めている。

 ところで白醤油とは、原料の九割が小麦なので琥珀色の液体に仕上がり、煮物、茶碗蒸し、うどんなどに好んで使われる醤油で、愛知県には昔からある。一方、普通の醤油は原料に小麦と大豆を半々ずつ使うから色は黒っぼくなる。

 七福醸造は原材料にこだわり、小麦と大豆は有機農法に限定し、鰹節や椎茸も厳選し、添加物は一切使わない。だから同社製品は他社製品に比べ割高だが、犬塚社長は、「吟味した最高の原料を使えば、値段が高くなるのは当然です。安物をやったら駄目です。お客様の目はごまかせません」 と意に介しない。
 

─── 地球環境問題の深刻さを知って愕然 ───

 犬塚社長の更なる転機は、平成四(一九九二)年三月、山梨県で開かれた、「地球村」代表の高木善之さんの講演を開いたことから訪れた。高木さんは「このまま行けば、地球は壊滅します」と、諸データを掲げて地球環境問題の深刻さを語った。

 「発展途上国は経済成長によって先進国なみの豊かさを手に入れることができると信じて、国を挙げて経済開発に取り組んでいます。先進国ももちろん 経済成長に狂奔しています。でも、資源が枯渇し始め、このまま経済成長を続ければ、地球そのものがもたないことが目に見えてきました。だから利便性とか経済成長という考え方自体を改める必要があります」

 それまでも本社や工場はピカピカに磨き上げていたし、環境整備では人後に落ちないと自負していたものの、高木さんの地球規模の警告、並びに文明のあり方そのものに対する問い掛けは、犬塚社長の肺腑(はいふ)を貫き、講演の途中から涙が止まらなかった。  高木さんの「やれることから、具体的にやりましょう」との訴えに、犬塚社長は何ができるだろうかと考えた末、まずゴルフを止めた。また高木さんが推進する地球環境浄化運動である「地球村」運動を、工場のある碧南市でも起こし、一人でも多くの市民に事実を知ってもらおうと行動を開始した。

 高木さんの幕演で地球環境の深刻さを知った社員たちも自分たちにできることは何かと模索し始め、醤油作りも再検討された。その結果、雨水を浄化して清掃に使い、びん洗浄後の水も浄化して清掃に使うようになった。だしがらは年間四百トンも出るが、これも堆肥化装置を導入して堆肥に変え、農家に引き取ってもらうようになった。ぴんもできるだけリサイクルして、資源を使わないようにしようと、リターナブルぴんの採用を決めた。リターナブ ルぴんは新品より高く、コスト高になるのだが、「地球環境に負担をかけない」「資源の無駄遣いはしない」とのポリシーを譲ることはできない。それらの諸政策を支えたのが、「環境保全はあらゆるコストに優先する」という社長のポリシーだった。 「地球に負担をかけない」という犬塚社長の決意にはすさまじいものがある。 当然、国の環項問題への取り組みも手厳しく批判する。

 「平成九(一九九七)年、京都で地球温暖化防止国際会議が開かれ、二酸化炭素排出削減目標が討議されました。しかし日本は『経済成長率を落とさずに達成することは非常に難しい』と言って消極的なので、ヨーロッパ諸国から非難されました。私に言わせれば、日本政府は何を最優先させるべきなのか、判断が誤っているし、何が何でも基本政策を実行するぞという覚悟ができていないからだと思います」

 非難するだけではない。同社は毎土曜日に電気店や自動車修理工場、大型ゴミ集積場などを訪問して、フロンガスの回収に回っている。環境浄化運動は会社の枠を超えて社会にまで広がっているのだ。
 七福醸造は「味とこころ」という通信販売のお客様が多いのだが、こうした同社の行き方は顧客の支持を受け、「体にいいものを環境になるべく負担をかけずに作ろうとする姿勢は信頼できる」と売り上げにも反映している。


 

─── 内モンゴルの沙漠緑化運動 ───

  一九七二年、ローマクラブが『成長の限界』を出版し、ストックホルムでの国連環境会議で「宇宙船地球号」の危機が叫ばれてから、三十年が経過しようとしている。ここに至ってようやく、地球環境保全問題は行政の関心から一般の関心へと広がりつつある。つまりどこの雪国でも降雪量が少なくなり、各地では異常渇水が続いたことから、地球環境保全問題は他人事ではなくなってきたのだ。

 犬塚社長が沙漠化防止に関心を持つようになったのは、平成五(一九九三)年三月、七十九歳になる母キヨさんに付き添って、遠山正瑛日本沙漠緑化実践協会全長の講演を聞きに行ったことからだった。遠山会長は鳥取大学教授を定年退官後、中国にぶどう園を作る技術指導に行ったことがきっかけで、沙漠緑化に取り組むようになった。そして中国内モンゴル自治区庫布其(くぶち)沙漠の恩格貝(おんかくばい)で植林を続け、九十四歳の今も沙漠化防止に奮闘している稀有な人である。遠山会長は声を喋らして、「中国では毎年東京都に匹敵する面積が沙漠化し、黄河も過度に工業用水や農業用水に使われた結果、河口付近では水無しの状態になり、ここ数年は旱魃(かんばつ)の状態が続いています。 しかし、沙漠の植林は気温の上昇を抑え、かつ雨をもたらして大地を潤す地球再生運動なのです。気が遠くなるような計画ですが、そこからやらなければならないのです」

 と訴えたのだ。どうしても現地を見てみたいと言うキヨさんに付き添って、犬塚社長は翌年三月、沙漠緑化協力隊に参加し、遠山会長の応援に庫布其沙漠まで行った。
 でも、気がつき果てるほどにどこまでもどこまでも続く沙漠を見たとき、
「こんな所に木を植えても、うまく育つかな。焼け石に水なんじゃないの」と疑問視した。でもそれは杷憂に終わった。夏は日中五十度近くまで温度が上がり、みんな屋内に避難し、四時過ぎまで待つしかない過酷な環境なのに、遠山会長たちが沙漠に植えたポプラは活着し、青々とした林になっていたのだ。それはいま現在では緑の点に過ぎないけれども、人間の努力はいずれ沙漠を緑化することになると確信させるものだった。犬塚社長は恩格貝に三日間滞在し、植林に汗水垂らした。
 帰国後、犬塚キヨさんは定期預金や生命保険などを解約して三千万円を作ると、
「私はもう八十歳で植林の手伝いはできませんが、これで苗木を買って、植林に役立ててほしい」
 と遠山会長に寄付した。遠山会長はキヨさんの意を汲んで、「犬塚の森」と命名して十五万本を植林し、現在は青々と繁る森に成長している。
 遠山会長の根気強い呼びかけに応じて、徐々に支援者が増え、寄付金だけでなく、現地まで出かけ植林事業に加 わる人も多くなった。NTT、東北電力など企業や、労組や大学、高校、それに倫理研究所など社会教育団体や宗教団体も参加するようになり、毎年千名近い人が植林している。
 犬塚社長もまた毎年社員を連れて植林に参加している。お金を寄付して植林を支えるのもいいが、自ら現地に行き、汗水垂らして働くことの方が、一人ひとりのインパクトは強いからというのだ。事実、社員は、
「どんな海外旅行に行くよりも、大きな体験をしました。もう一度行って、私が植えたポプラを見てみたい」
「誰ひとりいない荒涼たる沙漢で、満天の星を仰いだ時、ぼくの人生観は変わりました」「現地の人の生活に触れてみて、いかに自分が資源を湯水のように使っていたか思い知らされ、反省しました」
 などと感想を述べている。
 七福醸造では昨年の新入社員を除く全員が沙漠での植林を経験した。だから沙漢緑化の願いは誰にも共通したものとなっている。そこで犬塚社長は毎年一千万円を緑化事業に寄付するようにした。目標は毎年一億円である。
「そのために通販事業の売り上げを伸ばせば、遠からず一億円を捻出できます。そうしようと今全社員打って一丸となって頑張っています」
 と大塚社長は言う。七福醸造は不思議な会社である。普通は給料やボーナスを上げるために販売を伸ばそうというのだが、同社では、沙漠緑化にもっと資金が使えるように、売り上げを伸ばそうというのだ。どうも七福醸造は これまでなかったタイプの会社なのかもしれない。
 

─── 「阪神大震災支援で逆に私たちが励まされました」 ───

 「人に喜ばれることは率先してする」という同社の姿勢が端的に現れたのは、平成七(一九九五)年一月、死者六千人、倒壊家屋二十一万戸という甚大な被害を出した阪神淡路大震災の時だ。そのニュースが入るや、犬塚社長はすぐ社員を神戸に派遣し、何かできることはないか模索し、炊き出しの救援を始めた。食材は安城市から二トントラックで運び、二、三千食作った。それが二十日、三十日と続くと、経理担当者が悲鳴を上げ、「社長、このままいったら、会社が駄目になってしまいます」と会社の窮状を訴えたが、犬塚社長は、
「やれるところまでやろう。うちはまだ死人は出ていないじゃないか」
 と手を緩めず、とうとう三十八日間続け、千二百万円注ぎ込んだのだ。
「これは私ども中小企業にとつては無視できない額ですが、それによって誰よりも私たちが励まされたのです」
 人間はその人生で、合うべき人には必ず合わされる。それも一瞬早通ぎもせず、遅過ぎもせず、横が熟したベストなタイミングで起こる。その意味で、七福醸造の社員はあの地震でかけがえのない経験をし、助け合いの心を学んだのだ。
「一倉先生がいつも『会社経営の基本は利潤追求ではなく、人づくりだ』とおっしゃっていました。今ようやくそれがわかります。社長が経営指標を見ながら社員を叱咤激励するのではなく、社員が大切な気付きを得て成長していけば、会社も収益が伸びていくのです。お蔭さまで同業他社よりも高い給料が出せています」
 会社が利潤追求だけではなく、切磋琢磨して魂を磨き合う場になったら、仕事もどんなに楽しくなるかわからないし、それは社風となって現れる。私は七福醸造の生き生きとした社風を見て、犬塚社長は見事な会社をつくり上げたものだと感動が去らなかった。


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